top of page

第1回茨城美術展の審査風景(左から3人目が横山大観、4人目は小川芋銭、5人目は木村武山)

 

茨 展 の 創 設


(2006/12/20(水) 茨城新聞朝刊 総合1面 A版 1頁より転載)

■ 県内公募展のモデルに

   
 毎年秋に水戸市の県近代美術館と県民文化センターを会場に開催されている県芸術祭の美術展覧会。その系譜をたどると、戦後十八年間続いた県主催の茨城県美術展覧会(県展)があり、さらにその発想の源には「茨城美術展覧会」がある。
 通称「茨展」といわれた同展は、いはらき新聞社(現・茨城新聞社)が主催した日本画の公募展で、一九二三(大正十二)年から四〇(昭和十五)年まで、ほぼ隔年ごとに計八回開催された。
    

 『茨城新聞百年史』によると、同展は当時の飯村丈三郎社長が発案した。「本県の美術を興隆し、情操の向上にも役立てたい」と、日本美術院の経営者の一人で本県出身でもある旧知の斎藤隆三を介し、横山大観、木村武山、小川芋銭らに諮って実現した。
 飯村は、その人物芸術共に高く評価する大観を軸に「県出身の美術の大家と県人とを結びつける」ことを構想した。展覧会の具体的な計画遂行は斎藤や、新聞社側の本多文雄主筆、蛯原凡平、渡辺実らが担った。

   
 こうして開催にこぎつけた茨展は、所期の予想を上回るほどの大きな反響を県民の間に巻き起こした。

  
 二三(大正十二)年五月二十五日から二十九日まで、水戸市の県公会堂で開催された第一回展には、一般公募の入選作六十三点を含む約百点が出品された。顧問・審査員を兼ねた大観、武山、芋銭、飛田周山のほか、下村観山や松本楓湖らも力作を寄せるなど、豪華な顔ぶれで、中央展に引けを取らない充実した展覧会となった。わずか五日間の入場者は一万九百二十九人にも上った。

   
 第二回展は公募作品の搬入数も初回展の百五十点に対し、三百点近くと倍増。一方、大観らの意向を踏まえ、審査は極めて厳正で、入選数は八十四点に絞られた。
    

 この茨展から、小林巣居人、永田春水、長山はく、木村武夫、田中嘉三、高崎興らの日本画家を輩出した。

   
 その後も、茨展の規模内容は回を重ねるごとに充実、第六回展(一九三三=昭和八年)には搬入数は四百点を超えた。ところが、次の第七回展を前に勢いが反転する。
 二九(昭和四)年、火災で焼失した県公会堂に替わる茨城会館が三五(昭和十)年に完成。それを記念して、県は開館記念美術展を計画。その内容は茨展とそっくりで、大観ら審査員の顔ぶれまで同じだった。
    

 このため、同年予定された“本物”の第七回茨展が開催できなくなり、二年後の三七(昭和十二)年に延期となった。ところが、この空白期間に、潮目が変わってしまったのである。

   
 折しも三五(昭和十)年、中央の美術界では、帝国美術院を改組(いわゆる松田改組)する動きがあり、在野の日本美術院率いる大観が新会員に任命される。このことが影響して、茨展は三七年の第七回展で顧問・審査員の大観、隆三、芋銭が退く事態となった。
 
中心人物が欠けた茨展の人気は陰り、七回展の搬入数は二百七十八点と激減。三年後の四〇(昭和十五)年の第八回展では入選数は十八点まで減ってしまった。戦時下という時勢もあり、以後自然消滅する形となった。
    

 だが、この茨展に刺激される形で、県内では「常総洋画展」(一九二四年)、「茨城工芸展」(三〇年)が誕生。戦後、洋画を核に県主催で新たな公募展の県展が四八(昭和二十三)年から始まった。
   

 県展の草創期に所管する県社会教育課に在籍した相田公平さん(77)=ひたちなか市=は「県展のモデルは日展だが、イメージを戦前の茨展に求めた人も少なくなかった」と指摘する。その上で「茨展が今日の美術が盛んな茨城の下地をつくる役割を果たしたことは間違いない」と話す。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 上記の茨城新聞社の記事にありますように、元祖の「茨展」の実質的本流は県展(茨城県芸術祭美術展覧会)日本画部門へと移行していった感はありますが、本会は茨城在住、出身の院展作家を中心としながら、「茨展」・「院展」の精神を今に伝え、県内日本画制作者の研鑽の場の1つとなっています。

 現在の「茨展」は、戦前、院展と同等の厳選とまでいわれた公募体制とは全く異なる道をたどり、茨城在住の院展作家を中心に、アマチュアからプロまで、当会会員(現在62名)全員の作品が無鑑査で展示され、実にアットホームな雰囲気の会となっている。

 毎回、会員の優秀作(2名程度)に対し、「茨城美術会賞」を授与し、委員の中でも優秀な作品には委員特別賞を授与、70周年記念展からは県知事賞や茨城新聞社賞も授与される運びとなりました。

 

 また、県展出品作のための研究会を年3回行い、会員の県展への出品を奨励すると共に、県展の運営へも積極的に参加しているます。

 現在の顧問は、日本美術院理事 那波多目功一先生、倉島重友先生。

 

 後援を頂いているのは、茨城県、水戸市、茨城県教育委員会、茨城新聞社、茨城文化団体連合。
 

機 関 組 織

【 名誉会員 】

斎藤彰男(前会長) 中嶌虎威

【 会 長 】

 

谷中武彦

 

【 副会長 】

大坪由明 石村雅幸


【常任委員】

西脇静子 大坪由明  鈴木貞夫  石村雅幸  遠藤俊久 仲    裕行  新倉嘉江    水見  剛

羽根田長門 鬼塚堅太  斎藤竜太

【 委 員 】

荒木敬子  鈴木豊男  柘植宣男    手塚作子  長坂玲子  矢吹栄子     中原和子 黒羽裕子

中村良子  佐藤正司     伊藤光雄    谷津たき    

会 員 】

阿部知子 五十嵐弓子   石川綾子 伊野晴子  猪瀬修一 永木俊子    大友敬子  金澤四郎    神永喜美子 菅野みよ子 郡司久子 後藤昌子 
鈴木一枝   鈴木春江   関谷美枝子   高崎 晃
高橋さと美   滝口洋子 田中瑞穂   千勝弘己

塚田美知子  寺門陽子 照沼保子  十津川晴美 永井渥子 中尾幸子 中根信子 中野恵子
根本秀子  深作裕子  水内恵美子 山田公子

湯浅栄子  大塚やえ子 佐神恵美子


院展所属当会会員

※敬称略、日本美術院名簿掲載順

〔特待〕

斎藤彰男(前会長・県展参与)
大坪由明(副会長・常任委員・県展委員)
谷中武彦(会長・県展委員)
石村雅幸(副会長・常任委員・県展委員)
仲 裕行(前事務局・常任委員・県展会員)

〔院友〕

西脇静子(常任委員・県展参与)
羽子田長門(常任委員・県展会員)
遠藤俊久(常任委員・県展会員)
鈴木貞夫(常任委員・県展会員)

新倉嘉江(常任委員・県展会員)
水見 剛(常任委員・県展会友)

斎藤竜太(常任委員・県展会員)

鬼塚賢太(常任委員・県展会友)

〔研究会員〕

手塚作子(委員・県展会員)

伊藤光雄(委員・県展会友)

鈴木一枝(会員・県展会友)

​沿革

茨城美術会

この写真の方は日本美術院の再興を陰で支えたご意見番(当時、日本美術院常任理事)の斎藤隆三先生です。
 
昭和17年には、財団法人岡倉天心偉績顕彰会専務理事もされました。

現茨城美術会前会長の斎藤彰男先生のお父様です。

岡倉天心先生あっての日本美術院だったわけですが、天心先生亡き後、再興への道のりは平坦なものではなかったでしょう。

そもそも個性の強い作家の集まりですから、大きな団体になるほどまとめるのは大変な事で。

斎藤隆三先生は、美術院からの顧問料は一切受け取らずに、その代りに思ったことは歯に衣を着せずに意見させてもらう・・・

この人がいたから再興は実現し、今の再興院展のゆるぎない礎が出来たそうです。

茨城美術会の再興にも尽力されております。
※風俗史家・美術評論家。文学博士。茨城県生。東大卒。三井家事業史の編纂に従事。のち横山大観らとともに日本美術院を再興、同理事となる。著に『近世日本世相史』『日本美術院史』等。昭和36年(1961)歿、86才。
bottom of page